私と強迫性障害

強迫性障害

現在、心理オフィス ステラでは強迫性障害の悩み相談、カウンセリングは受け賜わっておりません。
1人の強迫性障害経験者の記録、及び、情報としてお読みください。

強迫性障害の心理カウンセリングを受け賜わっていない理由

また、本ページを含め関連6ページは、2004頃作成したものであり、最新の脳科学の見識とは合わない箇所もあるかもしれません。ご了承ください。(2016年10月)。

さて、強迫性障害の苦しみは、強迫性障害になった人しか分からないと、私は思っています。

なぜなら強迫性障害の苦痛と苦しみは、個性的で独創的な悩みや恐怖であり、なかなか一般の人には理解してもらえないのです。

私も幼少期(6歳頃)から強迫性障害を経験して苦しみました。
今の私の、強迫性障害の症状はかなり軽減され、楽になっています。

私と強迫性障害 その1

ここに私と強迫性障害との記録について書きたいと思います。

生まれる前

まず私が母の胎内にいた頃の家庭環境についてです。

当時は父方の家に両親とも同居しており、家族構成は、祖母、父、母の3人でした。この祖母と母の相性は大変悪く、母は祖母にいじめられていたということを聞いております。
したがって、妊娠中の母の心理状態はあまり良いものではなかったと思います。

子供は生まれる前から、胎内において母親と結びついていますので、母の感じる様々な悲しみや、不安等を、私は胎内にて母から受け取っていたように思います。

また、遺伝の観点から母の性格について書きますと、母の母(祖母)は、何をしても母を褒めることはなかったと聞いています。子供は親から褒められて認められて、自分の価値を認識して成長するものです。

したがって、認められないということは、認めてもらおうと「これでもか」と完璧なまでに努力をします。強迫性人格の出来上がりです。

また、認めてもらえないということは、自分はOK、自分は出来るという、自己信頼感を得られないということですから、自分に対して否定的、かつ、漫然とした不安感を持っていることにつながります。

このような母の抱く自己不全感や漠然とした不安感、何をしてもまだまだという強迫性はまさに、強迫性障害の息子を誕生させる遺伝的要因に包括されるのです。

したがって、私は生まれる以前より、家庭環境と遺伝の面から強迫性障害になるべくしてなった。そう思っています。

幼少期(3歳頃まで)

はっきりした記憶はありません。したがってほとんど想像で書きます。

私と両親と祖母は、私が3歳位まで同居しておりました。あいかわらず、祖母は母にきつく当たっていたようです。
母は何かあると私を乳母車に乗せて実家に帰ったそうです。(実家はとても近い距離です)。

ここで分かることは、母は祖母と暮らして楽しくなかった。また、笑顔もなく、どちらかといえば泣いていた。
このように理解しています。

しかし、赤ちゃんや幼い子供は周りで何が起こっているのか客観的に状況を理解する力がなく、何でも自分と関連づけて考えてしまいます。

これらの事実と推論から、私は母に笑顔がなく、泣いているのは自分が悪いからだと自己関連づけ、その結果自分は悪い子という思いを抱き、自分を責める傾向を持ってしまったかもしれません。

強迫性障害の性格特徴の1つ、私の内罰的な傾向はここからきているのかもしれません。

また、常に母の涙を見たり、もしくはすすり泣く音を聞いており(推論です)、私は漠然とした不安感を自己の中核に持ってしまったかもしれません(子供にとっては母親と、取り巻く環境が全てであり、そこに安心を感じることが出来なければ、不安を感じると思います)。

このように、私は生まれる以前、そして、性格を形成する初期段階において、自己関連づけより愛されていない感覚、漠然とした不安感、自己不信、内罰的な感覚を抱き、強迫性障害に必須の資質を受け継ぎ育んだのだと思います。

少年期(6歳)強迫性障害の発生

小学1年生の頃、強迫性障害は始まりました。
私ははっきりと当時の強迫行動と強迫観念の記憶を持っています。

当時、父親よりピアノを習わされており、父親はずっと横でピアノの練習を見ていました。
そして、私はピアノの練習が終わった後、「ドミソ」という音(Cコ−ド 和音)を何回も押さえ音を出していました。これが、強迫行動です。

どうして、そのようなことをしていたのでしょうか。
説明します。

正直、私はピアノが嫌いでした。
ピアノの練習っておもしろくないものですよ。
教則本と言って、曲になっていない、技術向上のための練習曲を弾くのですから、あんなつまらないものはありません。
したがって、6歳の私にとってピアノの練習は苦痛以外の何ものでもなかったのです

そのピアノを父親に無理やり習わされているわけですから、練習中は父に対して、いい思いを抱けず、「どっかへ行ってしまえ」等その存在を否定する考え(観念)が浮かんでいました。

しかし、実際に父親にどっかへ行ってもらっては困る(愛憎の間)わけで、その考え、観念を取り消さないと、現実に大変なことが起こってしまう。そういう不安に駆り立てられました。

この不安に対処するには、そのもととなる、考え(観念)を取り消すことをしなくてはなりません。
その取り消すための行動が、「ドミソ」の和音を押さえることだったのです。強迫行動。

なぜ、そうなるのかですが、ピアノの練習中、ピアノの鍵盤を押さえ音を出している時に父を否定する、
観念が出てくるわけですから、ピアノで最後に出す音は、父を肯定する観念で鍵盤を押さえないと、先の不安が現実になってしまうという理屈です。

父の存在否定の観念⇒将来に対する不安の発生。現実化への恐怖感。⇒強迫観念。
それを取り消すために、更には肯定的観念に置き換えるために「ドミソ」の音を出す⇒強迫行動⇒この循環が強迫性障害。

これが私が意識している最初の強迫行動とそのもとである、強迫観念及び強迫性障害です。

但し、今あらためて考えると、6歳で急に強迫性障害になるだろうか?
実は、2015年、母より直接聞きました。
ピアノは、母が私が4歳頃、横について教えていたのですが、あまりにも、私のピアノがヘタ過ぎて、直接叩いたり、物差しで叩いたり、母は私に対する感情制御が出来なかったようです。

もし、私が日々、母から恐怖を与えられていたとしたら、脳の恐怖、不安を感じる、扁桃体が大きくなり、それが、強迫性障害の根源かもしれません。(2018年8月補記)。

とにかく、私にとっては家庭とは不安に満ちた、安心感のない家庭だったのかもしれません。

更に(〜28歳まで)

その後の28歳までの強迫性障害(強迫観念・強迫行動)について書きたいと思います。

確認恐怖:
スト−ブの消化確認、何度でも石油スト−ブのつまみを回す。
ガスの元栓を何度でも確認。
想念恐怖:
嫌なこと、起こっては困ることが浮かぶと、その観念を払いのけるために、右手、左手と交互に息を吹きかけ、その観念を払拭する。なぜか分からないのですが、私の場合観念が手に宿ってしまうという考えを持ってしまったようです。

しかし、手を吹くという儀式化した強迫行動は一目につきやすく、実際指摘されたため、手を吹く強迫行動から手を洗う強迫行動へと変わりました。

洗浄汚染恐怖の人はどれだけ手を洗っても菌がついていると捉われ、手を洗い続けますが、私の場合は不安な観念を落とすために手を洗い続けたのでした。
しかし、この手洗いを続けることになったのは、これだけ洗っても観念が落ちないからということではありません。
洗い終わっても、またすぐに観念が浮かんでしまい、また、洗う。

この繰り返しです。
手を洗う⇒観念が流れ去る⇒観念が浮かぶ⇒手を洗う⇒観念が流れ去る⇒観念が浮かぶ。
この一連の循環はまさに、強迫性障害です。
この堂々巡りを永遠に繰り返すのです。
当然疲れます。

また、観念が物にしみこむという恐怖感も持っていました。

CDのダビングのスタ−トボタンを押す際に、不安なことを考えると、次にこのダビング後のテ−プを聞いた時は不安が現実化になってしまう。
したがって、録音のやり直し。

まだまだ他にもたくさんの強迫性障害がありますが、ここまでにしておきましょう。

これだけ、いろいろな強迫性障害(強迫観念とそれに伴なう、強迫行動)があったのですが、社会生活にはそれほど支障をきたしませんでした。
主に凄まじい強迫観念との闘いは家でしており、社会(人の中)においては我慢が出来ました。

しかし、観念と闘っている時、強迫行動を気が狂ったように行った後は、ストレスから疲れて何もする気はしませんでした。

強迫性障害は精神的に疲れます。

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