事実と真実
事実は1つ(真実は事実に対する各々の解釈)
事実と真実、混在されがちな2つの言葉ですが、明確な違いがあります。
まず、事実。
起こった事、出来事、そのものを示します。
したがって、誰が見ても、事実は(起こったことは)不変であり、訂正出来ないものなのです。
しかし、その事実、起ったことを、どのように捉えるか、その個々人の解釈が、真実であると思います。
事実、起こったことは1つであり、真実はいかに事実を解釈するか、したがって、事実に対する真実は無数にあるのです。
また、事実そのものは変わることはありませんが、人がその事実に思うこと、解釈を変えることにより、その事実に対する真実が変わることもあるのです。
例えば、ある事で父と息子が喧嘩をしています。
喧嘩の原因は1つの事実です。
しかし、父息子、お互いが抱いている、その事実に対する思いを理解すれば、お互いの真実を理解することにつながり、事実を巡る真実が共有され、喧嘩が収まることもあるわけです。
さて、私と母の事例を書きましょう。
30年程前のことです。
マンションの下の木に犬が縛られていたようであり、犬が悲しげに鳴いていました。
母は私に犬を助けに行って欲しいと頼んできましたが、私は「それがどうした」の一言で片づけました。
これが事実です。
母は数年後、あの時は、あきれ果てて私には何も言えなかったと話していました。
犬を可哀想とも思わず、助けに行かない息子に対して冷たい、あきれ果てた。
これが、事実に対する母の真実です。
しかし、私の真実は違うのです。
私も犬が木に縛られているのを感じ、可哀想だなと思っていました。
しかし、「母に犬が可哀想だから助けに行って欲しい」と頼まれた時、カッときたと記憶しています。
「自分で犬を助けに行かんか」。
「自分が可哀想と思っているのであれば、自分が行動すべき。それに、私が助けに行っても、縄を解けない等で帰って来たら、また、私に対して悪態をつくのであろう。全て分かっているのだ」。
これらの思いすべてが、
「それがどうした」。
この一言に凝縮されていたのです。
そして、これが事実に対する私の真実。
犬を巡る、母と私の真実(思い)はまったく違うのです。
事実は1つ。
それを巡る真実は、人の数だけあり。
人々が自分の思いを話し、また、他者の話しを聞き理解することにより、自分が抱く事実に対する真実が変わることも多々あるのですが・・・。
何も話さなければ、その真実も、深い思い込みに変わっていくことでしょう。