謙虚と苦労(苦労するほど謙虚になる大切さ)
謙虚である人。
常に謙虚である人。
常に相手の立場を考えることが出来、自分を出す事を控える時は控え、他者に頭を下げることも礼儀と捉え、自身に余計な屈辱感を持たない方。
しかし、いざとなれば、凛とした態度で事に臨む。
私の謙虚さのイメージは上述のようなものです。
さて、常に謙虚であることは、なかなか難しい。
常に意識をしていないと、忘れてしまいます。
私は謙虚でありたいと思いますが、やはり、忘れてしまって、愛想のない態度、冷ややかな態度を取ってしまうこともあります。
例えば、スーパー、コンビニに行って、レジにて清算後、係の方に対して、「ありがとう」の一言を言うにしても、意識をしていないと、商品を受け取って黙って出て行くこともあります。
特にレジ待ちの時間が長い時。
イライラで、謙虚であろうという感覚も吹っ飛んでしまいます。
商品購入後「ありがとう」と一礼することは、客ではあるが、店の人にねぎらいの意を述べるにおいては、謙虚さの感覚も必要でしょう。
さて今回は、謙虚さと苦労について考えたいと思います。
謙虚と苦労と傲慢と
Index
1.苦労より謙虚さを学ぶこともあれば苦労より傲慢にもなる
2.苦労自慢は自慢となり人に嫌われる
1.苦労より謙虚さを学ぶこともあれば苦労より傲慢にもなる
謙虚さと苦労?
関係性があるのか?
と質問をされると、私はあると思っています。
様々な事で苦労された方、経済、起業、子育て、身体の事等、艱難辛苦を経験、克服された方は多々おられると思います。
実るほど 頭を下げる 稲穂かな。
という、有名な句がありますが、
実は人によっては、そうではない。
実るほど 踏ん反り返る 稲穂かな
このパターンもあります。
苦労して、苦労した分、また、困難を克服した分、「自分は凄い」と、自分を高く評価する方もおられるでしょう。
自己評価をどうするか、それは、それで自由です。
問題は、「自分は様々な問題で苦労した、それを克服した、凄い人間だ」というこの思いを、自分の中に封じ込めておくことが出来るかどうかです。
自分の苦労したこと、これに対して自分は凄いという思いを、自分の中に封じ込めておくことが出来ないと、それは、その方の言動、態度として、意識していなくても、表に出るでしょう。
そして、自分は凄いという意識を持てば、持つほど、
人との会話の中で、
「私は」、「俺は」等を中心として、自慢話しのように、その事を話されると思います。
また、酷い時は、審判者の如く、他者を批判、非難、攻撃されるでしょう。
自分はあれだけの苦労をして、乗り越えた。
それに比べ・・・。
自己中心性に基づく、比較の心理が動きます。
2.苦労自慢は自慢となり人に嫌われる
自分が苦労した、それを乗り越えた自分は凄いと、思うのは自由です。
しかし、その思いを封印しておかないと、その傲慢性、支配性は留まることを知らず、お山の大将の如く、日々、増長を重ねることでしょう。
しかし、いずれは、その人の傲慢性、支配性に反感を持つ人、傷つけられた人等が多々存在、やがて、その人は嫌われ、1人ぼっちになってしまうかもしれません。
もしくは、人は離れなくても(利権・利益目的等)、裏では何を言われているか分からず、その人が何らかの失敗をしようものなら、一瞬で人は背を向け去ることでしょう。
いろろいと苦難、苦労を乗り越えた自分をほめる、高く評価することは、それはそれでいいのですが、有頂天になって我を忘れてはいけないのです。
謙虚さを常に意識すること。
意識して、意識して、意識し続けること。
私もまだまだ未熟、私は謙虚な人間ですとは書きませんが、他者を裁く気はありません。
しかし、謙虚さを意識しないと、やはり、傲慢性が態度に出てしまいます。
これは、人間の本質のような気がします。
だからこそ、意識し続け、無意識にまで落とし込み、謙虚さを身に付ける必要があると思うのです。
卑屈になる必要はありません。
必要以上に他者に気を遣う必要もありません。
迎合する必要もありません。
でも、他者を尊重する気持ちは大切でしょう。
苦労が実り、より謙虚さを学ぶか。
踏ん反り返り、ひっくり返るか。
それは、その人の日々の意識しだいではないでしょうか。