「嫌われる勇気」から「どうでもいい境地へ」
多くの人は、自分の思っていること、考えていること、感じていることを、言いたい、発信したい、その思いは強くあるように感じます。
まして、今の時代、SNS全盛の時代、発信したい、つながりたい、自分のことを知ってもらいたい気持ちは、多くの人が持っている気持ちだと推察します。
しかし、発信したい気持ちと裏腹に、発信して嫌われたら、どうしようという心配、不安も抱かれることでしょう。
数年前、アドラー心理学の「嫌われる勇気 ダイヤモンド社刊」が、100万部突破しました。
多くの人は、この、「嫌われる勇気」。
この、タイトルに魅かれたのではないでしょうか?
嫌われる他者反応はコントロール出来ない
Index
1.私たちは他者の期待を満たすために生きてはいない
2.人は刺激に反応するもの発信についてどれだけ気を遣っても批判する者は存在する
3.嫌われる好かれることは他者が決めること(コントロール不可どうでもいいこと)
4.人は人・自分は自分
1.私たちは他者の期待を満たすために生きてはいない
自分の意見を発信することに躊躇、空気が云々、発信したくても批判、中傷が怖い等、窮屈な時代。
しかし、この本の帯には、次の言葉が添えてあります。
「他者の期待を満たすために生きてはいけない」。
その通りだと思います。
私たちは皆、自分を発信する権利があるのです。
思い切って、自分を発信することも、前進する勇気なのでしょう。
他者に迎合するために生きているわけではないのです。
自分が思っていること、考えていることを発信する。
その結果、嫌われるかもしれない。
でも、全員に嫌われることはなく、中には、賛同してくれる人もいると思います。
だから、恐れずに、一部の人達には、嫌われても構わないと思い、思い切って、自分を発信すること。
それが、自信や、自己肯定感につながることもあるでしょう。
しかし、それでも自分の思っていることを言葉に発っしたり、特にネット、SNS等で発信すると、嫌な思いをされることもあるでしょう。
2.人は刺激に反応するもの発信についてどれだけ気を遣っても批判する者は存在する
さて、私は人の本質を考えると、人とは刺激に反応する生き物である。
(これは、あらゆる生物も同じだと思いますが)。
したがって、自分が発信したこと、自分が刺激体になると、必ず、それを見て感じる人達、反応体が存在します。
人とは、刺激に対して、反応するものです。
どう反応されるかは、その人次第、自由です。
せっかく、嫌われてもいいと思われ、勇気を持って、発信したのにと、思われることもあるかもしれませんが、人は好き勝手に刺激に反応するのです。
そう考えると、特段、嫌われようが、好かれようが、反対されようが、賛同されようが、どうでも良いのではとも考えられませんか?
結局、刺激に対して、人は好き勝手に反応するものであり、コントロールすることは出来ないのです。
しかし、伝えることは伝える、発信したいことを発信し続けると、意外と嫌われる云々を通り越して、「気にしない境地」に達するかもしれません。
3.嫌われる好かれることは他者が決めること(コントロール不可どうでもいいこと)
嫌われる、好かれる、何も考えないこと。
自分は自分で在り続け、表現の自由において、好きに発信すれば良い。
嫌われる勇気から、気にしない境地へ、そうなれば素晴らしいと思います。
それから2行上に、表現の自由と書きましたが、感情的、短絡的に、他者を批判、傷つける言動、行為に関しては、私個人としは表現の自由とは言い難いと考えています。
自由と言えば、自由だけど、必ずその言動、行いは自分に返ってくるでしょう。
私は心理カウンセラーであるゆえに、常日頃、慎重に言葉を選ぶように心がけています。
これは、他者への気持ちへの配慮もありますが、言葉のブーメラン返しの現象は、必ず起こると畏怖しているからです。
さて、少し話しがそれましたが、嫌われる勇気、この言葉は、嫌われても良いから自己発信しようという尊い決意のようなものだと思います。
最初の発信は嫌われる勇気の如く、強い決意が必要かもしれませんが、書き続けていく、発信し続けていくと、案外気にしない境地、悟りが開けるかもしれません。
特にネットの世界においては、発信すれば、何かが即効で返ってくることもある。
それらをコントロールすることは出来ない。
だから放っておこう。
さて、私は常に文章を発信していますが、嫌われる勇気、好かれる為等は考えたことはありません。
でも、その1つは、私がホームページで一方的に発信しているだけで、SNSのような双方向に基づく、発信をしていないからでしょう。
私は文字のやり取りで、双方向の交流が嫌いなのだと、自己認識しています。
古い時代気質の人間の証拠かもしれませんが・・・。
そして、もし私が他者の反応を気にしていたら、そのことを気にするだけで何も書けなくなってしまいます。
どう書けば、批判的に受け取られずに伝えられるか、いかに伝えようとも、書こうとも、批判的にとらえる人は必ずいます。
したがって、その事を考えるだけ、時間を無駄にしてしまいます。
私は自己満足のレベルですが、自分の伝えたいことに専念して書いているだけです。
そして、他者反応に関しては、プラスの感情で読んでくれる人が1人でもいれば、喜ばしいことです。
結局、何をしても、他者は刺激に反応します。
他者の刺激はコントロールは出来ません。
刺激の結果としての、嫌われる、好かれるもコントロール出来ません。
コントロール出来ないものは「どうでもいい」。
この境地で日々過ごした方が、生き方、在り方として楽なのです。
さて、基本的に私のポリシーは、人は人、自分は自分。
自分は自分の書きたいことに専念して、他者の発信にも過剰反応はしない。
4.人は人・自分は自分
人は人 自分は自分。
最後に心理学者、ゲシュタルト療法の創始者。
フリップ・パールズ博士の「ゲシュタルトの祈り」から。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。
私は、あなたの期待に応えるために生きているわけではない。
そして、あなたも、私の期待に応えるために生きているわけではない。
私は私、あなたはあなた。
もしも偶然、私たちの心が触れ合うならば、それは素敵なことだ。
もし触れ合えないとしても、それは仕方のないことだ。