愛を説く人は本当に愛を知っているのか
愛とは説くものではない。
愛、それは、行為行動より示されるものではないでしょうか。
私は愛とは行動行為(思いやりに満ちた言語表現等含む)の中に見出すものであり、
愛とは何か
説くものではないと考えます。
さて、言葉の行き違いがないように前提です。
それは、愛を語ることと、愛を説くことは違うということです。
愛を語るとは、恋人、夫婦、親子等における、文字通り、愛を語る、相手に自分の愛の想いを伝えることです。
しかし、愛を説くとは、愛とは何か、愛を説く、説教、指導するということです。
愛を語ることと、愛を説くことは、違うのです。
さて、
「愛」。
「愛しなさい」。
「許しなさい」。
これらの言葉を簡単に口から出す人がいます。
愛を説きたいのです。
この人達の自己立場の認識としては、自分が他者より、一段上と思っている人が多い傾向があります。
愛を説く人の多くは愛を知らない
「愛」を説く人の多くは、「愛」を知らない。
愛、人間愛、慈悲の心を持ち、愛を説くことが出来る人は、ごく僅かでしょう。
愛には、親子愛、恋愛、友愛、グループ愛、国家愛等、様々な愛があると思いますが
ここまで読まれて、お気づきでしょうか?
現実的に愛と称するものは、ある関係性、連帯、グループ、組織等のつながりにおいてのみ存在している傾向を感じます。
そうなると、自分達とは違う、関係性、連帯、クループ、組織等の人に対して、愛は生じないこともあるのではないでしょうか。
私たちは、一般的に、自分に関する、血縁、居心地の良い集団、理念、理想を共有する集団内等において、愛を感じるのであり、自分が属していない、関係性、連帯、グループ、組織等に対しては、愛を感じないことが考えられます。
理念、理想が違う、価値観が違う、理解不能、肌の色が違う等、異なる人達、集団に対しては、愛ではなく敵意、憎しみ、排除行動を取る場合もあるでしょう。
私たちがよく使用する言葉、「愛」とは、自分達の身内、仲間内における、愛である可能性が高いのです。
したがって、自分達とは異質なものは、愛せないとなるのです。
さて、「愛を説く人」、「愛の伝道者」を気取る人達には、上述の重大な欠点を見ることが多々あります。
それは、自分の語る愛が否定された時、その語る愛を否定した相手を否定するのです。
自分の説く愛を認めた人達は、自分にとって居心地の良いグループ、仲間とし、自分の説く愛を否定した人達については、憎む、侮蔑、敵意等を抱くのです。
これでは、「愛」を説く資格はないでしょう。
多くの愛を説く人、愛の説教者、指導者のように振る舞う人は、本当の愛を知らないのです。
自分が感じている、考えている愛を、唯一正しい愛として、説いているだけなのです。
愛を説き、かつ、人を見下す人が多々いることを私は知っています。
本当に愛を説くことが出来る人は、ごく僅か、常に私利私欲のない行為行動を取り、無償の愛を具現化され、人の為に尽くすことが出来、自分が偉いとは思わない、徳の高い人だけなのです。